ようこそ/さようなら。    松本 眞  二年半前この学部に応募したとき、「総合人間学」 とはなんなのかイメージが湧かなかったが、「人間 学」には多少の思い入れがあったのを思い出す。 亡父の師、故・谷口隆之助の思想の呼称には「人 間学」が相応しいと思えるからである。  昭和41年谷口は「人間学部」を作るために宮城 学院女子大学から神戸八代学院に呼ばれたが計画 は挫折、その後「ラジオによる人間学講座」や毎 月の勉強会を通して人間学を説いた。僕は父の蔵 書にあった彼の著作『愛からの自由』『聖書の人生 論』を読んで、初めて聖書や般若心経に書いてあ ることがすっきりと納得できた。それまでに見た 解説書と異なり、谷口の思想は自然・明解・論理 的であり、かつ宗教的古典書の内容そのものと合 致していたのである。ここでそれを語ることは難 しいので、興味のある方は是非彼の著作に直接触 れていただきたく思う(復刊中、問い合わせは「出 版会・隆」0468-71-6027まで)。  僕が学んだことの断片を一つ挙げると「まず無 いことを受け入れなさい。すると、有ることがわ かってうれしいでしょう。」である。無いことを受 け入れる典型例は、申し上げにくいが「我々には、 存在する価値がない」という事実を認めることで ある。我々は成績がいいとか、人の役に立つとか いう理由で自他を評価し、存在価値を見出そうと する。だが冷静に考えてみれば、我々は、いる価 値があるからここにいるのではなく、知らないう ちにいつのまにか生まれ、存在に放りこまれたの である。世界は我々の意志とは無関係に、なんの 理由もなしに我々を生かしている。「価値」が人を 選別しているのは「社会」と言う人間が作った虚 構の枠組みの中だけであり、世界の実相とは違う。  喩えれば、我々は自分たちを「イチゴの苗」の ように思っている。どうすれば他より赤く、大き くなれるだろうか、といったことにばかり腐心し ている。あるいは「本当に大切なのは味だ」など と悟った気になって、今度は甘さに腐心する。他 人にちょっとでも傷をつけられようものなら激し く怒り、他人の陰に入らないように、損をしない ように戦々恐々としている。自分より小さなイチ ゴを見れば安心し、大きなイチゴを見れば「味は 自分が上だ」などと思いこんで見たりする。  現実には我々は畑の作物ではなく、野にある草 木である。なんのためにでもなくいつのまにかそ こにあり、そしてなくなる。という事実を、抵抗 無く受け入れられるまで、我執を捨てる。  「それでは虚無感にとらわれるのではないか?」 と思われるかも知れない。が、やってみると、全 く逆説的なことに、色を失った「空」な世界を受 け入れた瞬間から、そこに意味が満ち満ちてくる。  今まで心血を注いで来たことに意味がないこと をさらりと認め、ふと空を見る。と、太陽の光が そそがれている。地を見れば根が伸びている。我々 を生かしているのは我々の取り計らいではなく、 太陽や雨や大地や隣人である。その時我々は、太 陽も雨も大地も我々の存在も、全て人の取り計ら いによっては為し得ない、奇蹟であることに気づ く。世界を讃美しながら踊り出す。私にとっては、 これが「神に会う」ことであり、空即是色であり、 菩提薩婆訶(さとりに幸あれ)である。  そして、空に芽を伸ばすも、地に根を張るも、 枝に実を結ぶも、好きなように、導かれるように、 淡々と喜びながら暮らしていける。喜びは、我執 を取り去り心開けば、いのちから自然に溢れ湧い てくる。これは、本当だ。  新入生向けに卑近に説明してみよう。単位を集 めるために「楽勝授業」を選び、後は役に立ちそ うな授業(英会話、コンピュータ)を選ぶ。優の 数を増やすよう勉強時間を配分し、試験前には教 官に単位をお願いする。といったことだけに腐心 するのではなく、自分にとって興味があることや その周辺を、有用性を度外視して好きなだけ勉強 する。(そのために教官を十分利用する。そういう 目的なら教官は喜んで利用されます。)すると、無 性に嬉しくなってくる。これも、本当だよ。  そのために、大学はあるのだと思う。 では、ようこそ/さようなら。また会う日まで。